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6月16日(木)~7月19日(火)

[開館時間] 10:00~17:00 

(6月は休館なし 7月 6日(水)休館 

月2回水曜日休館

東京メトロ千代田線「町屋駅」 

都電荒川線「町屋駅前」「荒川7丁目」 

京成電鉄京成本線「町屋駅」

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ミランダというカメラメーカーがかつてあったのです。 21世紀のフィルムカメラは2022年、最後の輝きを放っているように見えます。それは消えかける線香花火のようなはかない姿でもありますよね。 フィルムカメラに興味を持った新しい世代に、そしてベテランフィルムカメラマンに いま一度ミランダというカメラメーカーがあったことを思い出してほしいとの願いを込めて、消えたメーカー、ミランダカメラの魅力を伝える写真展です。 この写真展ではかつてミランダカメラを持った多くのアマチュアカメラマンたちの「自家現像」をオマージュ、 自宅の押し入れや台所、ふろ場で現像しプリントしたサイズであろう「6つ切り」現代でいえばA4サイズに相当するでしょうか、当世風にインクジェットプリントをふくむ作品展示です。 全紙サイズの大きな作品を展示するのが今では一般的なことですが、ここではあえて当時の自家現像サイズで、当時のアマチュア写真のリアルな鼓動もお伝えできればと考えています。

萩谷 剛
吉田 高盛
三宅 岳
神原 武昌
井口 芳夫
山下全裸大将
アンカー 1
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写真展出展者はミランダ研究会会員ということではありません

これはフェニックスという、1955年、昭和30年に日本で一番最初に発売されることになるペンタプリズム付きの一眼レフ、ミランダTの試作品です。

とても珍しいカメラで世界中で1台しかありません。
この当時はペンタプリズムを作ることがとても難しく、とても苦労していたのです。
​これは開発者の荻原、大塚の学生時代からの夢のカメラを具現化したものだったのです。

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フェニックス(1954年)
オリオン精機有限会社

ミランダは航空エンジニアを目指していた2人の若い技術者が、戦争で道を断たれ、その夢を民生用光学機器開発に向け、開発製造した35㎜一眼レフカメラである。 2人は技術と見識を持って、ライカ、コンタックスなどの35㎜精密カメラの有用性をより高める光学部品を考案製造しつつ、常に次に来るカメラのことを考えていた。彼らの創るものは、接写そして遠距離の被写体など、距離計連動カメラの撮影領域を超えて撮影するものが殆どであった。2人の目標は当然、レンズを交換すれば近いものでも遠いものでも自分の眼でフォーカシングできる一眼レフであった。1954年秋に2人は「フェニックス」という試作一眼レフを発表する。このアドバルーンに業界は注目する。日本最初のアイレベルのペンタプリズムファインダーが目立っていた。 このカメラは名称を「ミランダ」と変更され、日本最初のペンタプリズファインダー付き一眼レフのミランダT型として1955年に発売された。組み立ては小さな工場で始まり、部品の調達がうまく行われず、生産は滞りがちであったが次第に解決され、翌1956年に工場を移転して、生産体制を確立したところ、今度はミランダの有用性に気がついたユーザーが増え需要に供給が追い付かなくなった。 会社は総出で対応し、増産体制を整えると同時に、次のステップとして、まだ距離計連動カメラの関心が強かった日本国内ではなく、すでに一眼レフ先進国であったアメリカ、カナダを中心とする世界各国への輸出を決断する。 この時期T型はすでに1/1000秒を加えたT−2型となっていた。さらに1958年には輸出専用機として、巻き上げをノブからレバーにしたA型、およびこれに1/1000秒を加えたA−2型をラインアップに加えた。また翌1959年には国内向けに、クイックリターンミラーを装備した高級機B型、および普及型のS型を、販売提携したリコーカメラの理研光学のチャンネルから売り出した。  そして、ほどなくミランダは全製品を輸出専用にシフトする。 すでにエキザクタやプラクチカなどの東ドイツ製一眼レフが普及していたアメリカ市場では、フランジバックが短くアダプターリングを使うことで、それらの交換レンズとアクセサリーの多くを使うことができるミランダは、きわめて合理的で、それら一眼レフより進歩し、洗練された機能を持つカメラと宣伝されていた。 その輸出の先頭を切ったのは1960年アメリカ・セントルイスで開かれたカメラショーで発表されたオートメックス型だった。このカメラはボディーシェルが一新され、ペンタプリズム前面に露出計が置かれファインダー内で絞り/シャッタースピードが確認出来るという最先端な機能を実現していた。 1961年には会社の経営陣の交代が行なわれたが、D-Ⅱ、DR、オートメックスⅡ型。そして内部自動絞りを備えたF型と次々新型カメラが投入され、機能の改良は続いた。 そして東京オリンピックが開催された1964年、満を持して新たに設立されたミラックス販売を通じて、セレンからCDsに受光素子を変えたオートメックスⅢ型、F型、これに単独CDs露出計を乗せたFm型の3機種で国内販売を再開することになる 翌年には内部機構を一新し、ミラー切れを防ぐため大型の上昇後退ミラーを装備し、さらにファインダースクリーンを交換式にしたG型が投入された。またこのカメラに合わせてシャッーダイヤルと同軸にセットする小型CDs露出計が用意され、これを装着したFV型、交換式ペンタプリズムにCDs受光素子内蔵したTTLペンタプリズムを装着したFVT型およびGT型が発売される。 この時期、他社と競争するようにカメラの測光系の工夫開発は続いたが、ミランダの極め付けはセンソレックス型だった。このカメラは反射ミラーにスリットを刻み、その背後にCDs受光素子を置き、画面中心をスポット測光するTTL開放測光を実現した。1967年、アメリカの『コンシューマーレポート』誌は、このセンソレックス型を数ある一眼レフの中から「最優秀」と評価した。 海外でのミランダの評価は定着し、これがアメリカAICによる全株式の買取につながることとなった。ミランダはアメリカ資本の子会社となり、工場は増設、生産量も増加していった。1968年には測光方式を絞り込みにしたセンソマート型および測光系を改良したセンソレックス後期型が発売された。 70年代に入るとさらに測光系の改良は続き、センソレックスⅡ型、およびスポット/平均測光切り替えでシャッター優先AEのセンソレックスEE型が発売される。 また新たなシリーズとして別系統の設計になる小型化されたセンソマートRS、RE型が投入された。また従来のマウントに加えてM42(プラクチカスクリュー)を採用したソリゴールTM型を発売した。 そして1975年最後のモデルとなる電磁制御されたシャッターをもつコンパクトなDX~3型がフォトキナで発表された。しかし事実上このカメラは生産が軌道に乗ることが出来ず、電子化は実現されないままミランダ一眼レフはその歴史を閉じることとなった。 萩谷 剛  1952(昭和27)年生まれ、東京工芸大学短期大学部写真応用科卒 「カメラレビュー・クラシックカメラ専科」の企画編集を担当 国産カメラの歴史全般に関心を持つ 著書にアサヒソノラマ刊『ズノーカメラ誕生』『セミクラシックカメラ』『ライカ研究』など

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